PROJECT
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1995-07-05
上記の画像をある雑誌に"広告"として掲載した。
コラージュによってつくられたこの"広告"には、ミース・ファン・デル・ローエの「バルセロナ・パヴィリオン」を単身女性のオシャレな生活のための住宅に転用しよう という意図が込められている。
「バルセロナ・パヴィリオン」は、1929年のバルセロナ万博に際してドイツのパヴィリオンとして建設されたものであり、もちろん住宅ではない。
しかし、広告の持つ力を利用すれば、パヴィリオンにすら住むことができるのではないか。
一般的に現代の建築家は、住宅を機能に従って作るべきだ、と考えている。しかし、住宅を住宅として成立させるのは、機能ではなく、"理想とする生活のイメージ"である。
新しく家をつくろうとする家族は、設計の場面において夢いっぱいの理想を抱くものである。リビングルームでの家族の団欒、ダイニングルームでの家族揃って の食事、子供部屋で勉強に励む子供たち、ベッドルームでの濃密な愛のコミュニケーションなど、"理想とする生活イメージ"が住宅の設計図に投影される。し かし、実際に出来上がった住宅の中で、そのイメージ通りに生活が行われることがどれくらいあるだろうか。マクロな視点で考えても、少子化、離婚率の増加、 非婚化、など、これまで"理想とする生活イメージ"のよりどころであった核家族という生活単位は、解体されつつある。個々のケースにおいては、マクロな統 計には表れない、さらに多様な行為が住宅の中で繰り広げられているはずである。
イメージの投影として作られた住宅は、機能とは一致していないし、現実に従った"機能的な"住宅が現れる兆候すらない。この事実は、住宅を住宅として成立させるのは、機能ではなく、「理想とする生活のイメージ」であることを示す一つの証拠である。
そして、この主張をさらに推し進めれば、"理想とする生活のイメージ"と無関係なものは住宅にはなりえないし、逆にそれさえを組み替えることができれば、なんでも住宅になりえるといえる。
たとえば、もし多くの建築家が考えるように住宅を機能という側面から捉えるならば、津村耕佑の「Final Home」は、そのネーミング通り「住宅」である。
「Final Home」は、
「寒さをしのぐため、ポケットに新聞紙を詰めれば防寒着に、あらかじめ非常食や医療キットを入れて災害時に着れば非難着になるなど個人の用途に適応できる服」
であり、確かに、寒さを凌ぎ、必需品をストックできる、という住宅としての機能を具えているからである。そして事実、建築家たちの間では、「Final Home」を家として捉えようとする議論が少なからずある。(注1)しかし、実際には、「Final Home」に住んだ人はいない。その理由は、やはり「Final Home」に"理想とする生活のイメージ"を誰も思い描くことができなかったからである。この「住宅」は、"理想とする生活"ではなく、それとは対極のホームレスをイメージさせてしまう。
あるいは、逆に、1995年に地下鉄サリン事件を起したオウム真理教の信者たちは、「サティアン」と呼ばれる倉庫でも生活することができた。つまり、彼ら は、一般社会の"理想とされる生活のイメージ"をオウム真理教独自の世界観に置き換えることによって、一般の人にとっての倉庫を「住宅」にすることができ たわけである。
では、住宅とそれを規定している"理想とする生活のイメージ"に今最も大きな影響を与えているものはなにか?
それは、テレビCM、映画、漫画などのメディアの中で誇張されたイメージであろう。それ故、住宅を考えようとすれば、様々なメディアを積極的に活用しつつ、"理想とする生活のイメージ"に向かい合う必要がある。
このプロジェクトは、広告というメディアを用いて、"理想とする生活のイメージ"を組み替えようとする試みだった。
注1:
『住宅論-12のダイアローグ』(青木淳著 INAX出版)>>には、「最後の家としての服」というタイトルの青木淳と津村耕祐との対談が収められている。あるいは、2000年には、テーマを「Final Home」ならぬ「Final House」とした、服の延長として家を考えようとするアイデアコンペが、審査員の伊東豊雄から出題された。